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幕末とは??
PARTU〜司馬さんの言葉から〜

このページでは、歴史作家であった故・司馬遼太郎さんが書かれた歴史小説の中から、幕末という時代について書かれていたものを管理人が独断で抜粋したものを集めました・・


〜小説「歳月」から〜
★この時期、自由と権利はまだそういう言葉が一般的になっておらず、「道義と権理」とよばれていた。
(管理人のひとりごと:ついでに「伝統」という言葉も西洋から輸入したものだった、と、夏目房之介さん(漫画評論家&夏目漱石のお孫さん)が書かれていたのを前に読みました。)

〜小説「世に棲む日日」から〜
★頼まれたわけでもないのに走りまわるのを志士というが〜

★人間は近代に入ると、泣かなくなった。中世では人はよく泣いた。
中世よりもはるかにくだって松陰の時代(※幕末の時代)ですら、 人間の感情は現代よりもはるかにゆたかで、激すれば死をも怖れぬかわり、他人の悲話をきいたり国家の窮迫を憂えたりするときは、感情を抑止することができない。
(管理人のひとりごと:志士達がいかに感情表現が豊かであったかは、彼らの残した書物や絵画を見ていただければよいと思いますが、その中でも管理人がわかりやすいと思うのは、”維新の三傑”とも言われる 長州藩の桂小五郎(のちの木戸孝允)です。

★当時、絶望という日本語がなかった。 困ったという言葉があった。

★徳川社会というのは知識人口の厚さという点 では同時代のヨーロッパの文明国をぬきんでているが、その特徴のひとつは知識人口が首都である江戸に集中しておらず各藩に分散していることであり、むしろ江戸のいわゆる旗本八万騎の教養水準よりも田舎の諸藩のそれのほうが高いことであった。
江戸にも高名な学者がいるが、諸藩にもいる。
自然、学問をする者にとっては、これは旅行であった。
諸国のそういうひとびとをたずねてめぐり歩かねばならない。

★もともと日本人の倫理は忠孝をやかましくいうが、横の関係である友情や友誼についてはさほどに言わない。
この倫理が日本人のなかに鮮明になってきたのは、むしろ明治後、西洋からそういう思想を輸入されてからだといってもいい。幕末、そういうものが自然の倫理として濃厚だったのは長州藩においてであり、タテの関係の倫理を尊ぶ他藩では濃厚にはみられない。
(管理人のひとりごと:烏合の衆から始まった新選組は?謎です・・)

作家の司馬遼太郎さんが、
1830年生まれの吉田松陰に対して、「明るい時代に育った」ということを書いていた記憶があります。
そのことから想像するに、(藩によって社会的雰囲気の違いはあったにしても、)おそらく近藤勇たちが生まれた1834、35年当時というのも、幕府の上層部では危機感があっても、庶民に「外圧の危機感」があったかどうかは謎です。
幕府が倒れる、などという事もまだ表立って語られていなかったはずです。
それよりも、天災による不安が大きかった時代だったように思われます。
それを除けば、娯楽が発達し、教育・学ぶ事にも熱心な時代でしたから、わりに明るい未来を想像できる時代だったのかなとも思いました。

 

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