[PR]血液型で当たる無料占い:アナタと私の相性は?《無料診断》

HOME   サイトマップ

 

「新選組の流れ」
ここでは新選組と時代の流れをおおまかに説明してあります。

<1・新選組の誕生>文久3年/1863年

江戸時代、江戸の徳川将軍自らが、京の天皇のもとへ上洛することは大変な事でした。

その徳川将軍上洛の際に、将軍警護の名目で浪士隊が集められ、その中に、

後に「新選組」となる近藤勇たちがいました。

浪士隊は、将軍より一足先に、京都へと上り(行き)ます。

しかしその浪士隊発案者であった清河八郎の目的は、実は「将軍警護」 のためではなく、

「徳川幕府打倒(倒幕思想)」のための兵士を集めるための策略でした。

当時、幕府の権威は失墜しはじめていました。

清河八郎は浪士隊に「これからは幕府ではなく、尊王(天皇)である」と説きます。

幕府を倒すために、天皇を頂点とする体制を築くべきだというのです。

ところが清河に反対する者達がいました。

近藤勇たち、試衛館道場の仲間と、水戸浪士・芹沢鴨の一味でした。

将軍警護のために京に来たのだから、清河の意見には賛同できないと反論しました。

結局清河八郎の策略は失敗に終わり、清河は後に会津藩士・佐々木只三郎によって暗殺されました。

浪士隊のほとんどが江戸へ帰る中、近藤勇たちは京の壬生村に残りました。

一方その頃、京では会津(現・福島県)藩主・松平容保が「京都守護職」という、

治安の悪化した京を守るという臨時にできた役職についていました。

浪士隊取締りの役人の中に会津藩士もいた関係でしょうか、 近藤勇たちは、

その会津藩の預かりとなり、そして文久3年「8月18日の政変」(1863年9月30日)の事件

の時、近藤達は「新選組」の隊名と京都市中取締りを会津藩から下命されます。

新選組の誕生です――― !!

ページTOPへ


<2・新選組結成から池田屋事件>
文久3年〜文久4年(元治元年)/1863年〜1864年

文久3年。

今で言う「警察隊」となった新選組。

不逞浪士が横行する京の町を、同じ浪士の新選組に退治させよう、というものです。

毒をもって毒を制す―― しかし時代は変わっていました。

時代の主役は、幕府の役人だけではなく、一介の志士達にもあったのです。

新選組は結成されてから、まず隊内での内部粛清が始まります。

会津藩からの指令もあり、乱暴で目立つ振る舞いが問題となった芹沢鴨の一味などが

次々と暗殺されていきます。
芹沢鴨には尊王思想と正義感があったという話があり、実際には「乱暴」なだけの行動では
なかったという話もあります。


芹沢局長一派亡き後、1頭局長となった近藤勇は意気揚々・・ではなく、

新選組運営のことなど心痛からくる神経性胃炎にかかっておりました。

しかし会津藩主・松平容保の後押しもあり、 幕府内で近藤勇は急激に頭角を現し、

諸藩の家老や有志とも会合するようになります。

幕閣政治の議論にも参加して行き、新選組外での活動が増えていきます。

そのためおそらく新選組内部のことについては、副長の土方歳三が仕切っていたであろ

うと言われています。

この頃の幕府と諸藩の思想は主に公武合体派。

実際、徳川家茂将軍は京へ上洛して孝明天皇と会っており、幕府と朝廷が手を組んで

国事を行っていこうという気運が高まって いました。

松平容保は、家茂将軍からも孝明天皇からも信頼が厚かったそうです。

ちなみに近藤さんは「いまこそ幕府と朝廷が一体となって、挙国一致で外国に対抗し

攘夷
を断行すべし」と攘夷論を展開。これも幕府などで多く論じられた思想です。

しかし・・この頃すでに、後に倒幕派となる薩摩藩(現・鹿児島県)や長州藩(現・山口県)

は攘夷思想でそれぞれ自国(藩)で外国船と戦闘をし、完敗したことにより、

外国との圧倒的な武器の力の差に、気がつき始めている所だったのでした・・。


「新選組」がその名を轟かすことになった有名事件が

池田屋事件(元治元年6月5日/1864年7月8日)」。

この事件は京都・池田屋に集まって会合を開いていた長州・土佐・肥後各藩出身の

志士20余人を新選組が襲撃したものです。
この事件で倒幕志士の重要人物が多く亡くなり、明治維新が2年遅れたとも、また早まった
とも言われています。
またこの池田屋での密会には、長州・桂小五郎(木戸孝允)も行く予定になっていたのですが、
会合に早く着すぎて別な場所で待機していたため、運良く助かります。
※もともと行く予定が無かったという説もあり。

7月19日に新選組は「禁門の変」にも参加し、長州志士や過激攘夷志士を京から追い出します。

ちなみに新選組は参加したものの、実際にはさほど活躍はしなかったようです。

警備していた所が戦火にならなかったようです。

その後10月15日には伊東甲子太郎らも加わります。

伊東は後に新選組と分離し高台寺党を結成。新選組の敵となり、 伊東の

同志は近藤勇の運命に大きく関わって行きます。

ページTOPへ


<3・新選組・隆盛期>
元治2年(慶応元年)〜慶応2年/1865年〜1866年

近藤勇たちが京へ上ってから2年後、おそらく新選組が最も充実していた時期です。

元治2年3月10日(1865年)には屯所を八木家から西本願寺へ移転します。

特に主だった事件はありません。

しかし、新選組の見えない所で事態は大きく変化していました。

長州では幕府との戦争(長州征討)が、 そしてその後の慶応2年1月21日(1866年)には

土佐(現・高知県)の坂本龍馬や中岡慎太郎の仲介により「薩長同盟」が成立します。

つまり幕府よりだった薩摩藩が、倒幕派の長州側となったのです。

また、公武合体論を支持していた徳川家茂将軍が7月20日に、 孝明天皇が

12月25日に相次いで病没

会津藩主・松平容保は信用を得ていた両者を失うことになりました。


そして最後の将軍となる徳川慶喜が家茂の後を継ぎました・・。

ページTOPへ


<4・新選組・崩壊のはじまり> 慶応3年/1867年

この年は3月20、21日に伊東一派が新選組を分離し高台寺党を結成しますが、

6月10日に新選組は総動員で幕府召し抱え=幕臣になり、幕府の中で近藤勇は

頭角を現していきます。

しかし見方を変えれば幕府はそれだけ人材に困窮していました。

幕府に「男児なし」と憤慨したという近藤勇ですが、その困窮ぶりは相当なものだったの

かもしれません。

近藤勇は9月20日に幕臣永井尚志(ながいなおゆき)により土佐藩士の後藤

象二郎を紹介され、 土佐やその近辺の情報を知ろうとしていたようです。

前年には安芸(広島)まで行き、長州などの情報収集をもくろんでいたようです。

しかし長州へは入れませんでした。

この頃の近藤勇は、幕府関係者の身辺警護や土佐藩の動向の探索を指示されます。

事実土佐藩には動きがありました。

安芸藩と共に徳川慶喜へ大政奉還の案を建白(訴え)、10月14日に

徳川慶喜は大政奉還を奏上。

大政奉還」とは、実質的な力を持たない朝廷に政権を渡し、その上で大名の

合議制をたてて再び徳川将軍が実権を握ろうという考え。
大政奉還は坂本龍馬の「船中八策」を元にしたものです。が、 龍馬のオリジナルではない
という話も多数あります。
管理人も、この案はいろいろな人物の話を聞いた上で龍馬が紙にまとめたものではないかと思います

それと 大政奉還策は1866年にはすでに龍馬から出ています。

そして大政奉還後、11月15日に坂本龍馬は暗殺されてしまいます。

(中岡慎太郎も討たれ、17日に死亡)

こんにちでは、暗殺は会津藩士で「京都見回り組」の佐々木只三郎らの手によるもの

と言われていますが、当時、近藤勇は11月26日に坂本龍馬殺害の嫌疑で取り調べを

受けています。
しかし当時、近藤勇が身辺警護をしていた幕臣・永井尚志は坂本龍馬とつながりがあり、
永井は龍馬に「暗殺指令を取り消す」という話をしていたそうです。
龍馬は長州とは繋がりはあったものの、土佐藩の大政奉還の立役者として、罪を許されようと
していたとか。(つまり龍馬は反・徳川ではなくなっていた)

実際には近藤は龍馬暗殺には加わっていないというのが現在の通説ですが、しかし

この事件が今後の近藤勇の命取りとなってしまいます。

ついでに同じ秋、養父の近藤周助が10月28日に亡くなります。

さらに同時期の11月18日に、新選組は隊から分離していた伊東甲子太郎らを暗殺

伊東の他に藤堂平助、服部武雄、毛内有之進も斬殺されます。

藤堂平助は試衛館時代からのメンバーで、彼だけは殺すな、という近藤局長の意見も

あったようですが、乱闘で藤堂平助も討たれてしまったようです。

新選組は坂本龍馬が暗殺されることによって、より倒幕派や龍馬の関係者から

敵として狙われることになります。また伊東派が薩摩藩の元にいたこともあり、

伊東一派の残党からも狙われる事になります。

亡き坂本龍馬らの案による「大政奉還」――

これは徳川家生き残りを示すものとなり、すでに倒幕を目指していた薩摩と

長州藩にとっては邪魔なものでした。

そこでクーデターが起こります。「王政復古の大号令」です。

12月9日、薩摩藩の大久保利通と、朝廷での権力を再び握ろうとしていた

岩倉具視
(いわくらともみ)ら、倒幕派による策略で「王政復古の大号令」

を発し、 政権から徳川慶喜と徳川家を排除することを命じます。

ちなみにこの頃、新しく天皇となった明治天皇はまだ少年でした。

ですから天皇が命じたというのは形式上。実際には岩倉ら倒幕派が行ったのでした。

大政奉還で徳川安泰・・・が一転。

倒幕派は薩長の兵を京に上らせていました。

さて、新選組。

12月18日には伊東派の残党・阿部十郎らに近藤勇が銃で狙撃され

右肩を負傷
します。

騎乗していた近藤は必死で屯所へと馬を走らせ帰ってきたそうです。

屯所で迎えた土方歳三は顔面蒼白だったとあります。

幕臣となっていた新選組は、「王政復古の大号令」と 朝廷から将軍が

辞官納地を命ぜられた事によって、崩壊したともいえます。

しかしこの時「旧幕府」となった幕府側はまだ納得しておらず、鳥羽・伏見で

薩長らの倒幕派と戦う事になります。

新選組鳥羽・伏見での戦いに参戦します。

しかし近藤局長が負傷のため、指揮は副長の土方歳三が取ります。

近藤勇は、すでに結核で病の身となっていた沖田総司と共に京から大坂へ下りました。

ページTOPへ



<5・鳥羽・伏見から転戦> 慶応4年(9月8日より明治元年)/1868年

新政府に排除された徳川慶喜は憤慨しますが、果たして慶喜に

戦意があったのかは不明です。

しかし1月3日に鳥羽・伏見で戦いとなり、将軍が恭順を示した後も、官軍となった倒幕派と、会津藩を中心とする旧幕府の残党が敵対。

ここから北国へと転戦する戊辰戦争が始まります。


鳥羽・伏見での戦いの勝敗は、武器の差により明らかでした。

倒幕派は過去に外国と戦争をし、後に和ぼく。外国から近代兵器を買い付けて いました。

一方旧幕府側は江戸時代から変わらない旧式の銃と槍と刀。

戦陣で指揮を取った土方歳三はこの鳥羽・伏見の戦いで「もはや槍や刀では戦えぬ

と思い知らされたのでした。

この戦いで新選組は、近藤たちと同じ試衛館メンバーの井上源三郎など、

20数人をを亡くし、ほか脱走などで、150人ほどの人数が117人ほどになっていました。

負傷者は50人以上。

新選組は鳥羽・伏見の戦いで1月6日に敗走をよぎなくされますが、なんとこの6日の夜10時頃、

最高司令官であるはずの徳川慶喜が前京都守護職の松平容保を含めた

わずかな供を連れて大阪城から密かに脱出

軍艦開陽丸に乗船し、11日に品川到着。翌12日に江戸城へ帰還してしまいました。

つまり新選組を含めた旧幕府軍は将軍に置き去りにされてしまったのです。


困惑
する新選組一同は、将軍の後を追うがごとく、1月9日、10日に富士山丸と

順動丸に分かれて乗船し、江戸へ向かいます。

・・・富士山丸に乗った土方歳三。ここで後に函館で行動を共にする、

オランダ帰りの軍艦奉行・榎本武揚と出会います。


京から江戸に到着した近藤・沖田は、治療のために医学所へ入院します。

沖田総司はもはや戦陣に立つことなく病床に臥すことになります。

そして他の隊士達も病院通い。
この頃の近藤勇の真意もよくわかっていませんが、右肩負傷で身体の自由が
利かなくなっていたことと、将軍が江戸へ密かに敗 走してしまったことで、大きな心理的変化があったと思われます。

一方土方歳三は戦場の経験により、「兵器をそろえ、銃装備をすれば戦える」

と思っていたもよう。

――事実、人数では旧幕府軍が圧倒的多数だったのです。

しかし、当の主である徳川将軍・慶喜には、徹底抗戦の意思はありませんでした。
慶喜は、国内が内戦混乱になることで外国から侵略されたら身も蓋もないと考えたとか。
単に朝敵になりたくなかったという説もあります。(真意は謎)


2月12日に徳川慶喜は、恭順をしめすために江戸城を出て、上野の寛永寺大慈院

において謹慎生活を送ります。

ここで、登場する人物がいます。

幕臣・勝海舟です。

勝海舟は一時期、海軍操練所を開き、いろんな浪士達に教えていましたが池田屋事件

で土佐藩士の教え子が殺されたこともあり、新選組に対する印象は悪かったようです。

新選組は、京にいた頃に多くの倒幕志士を斬っており、恨みを買っている。

これから倒幕派(この頃は官軍=天皇・新政府軍)に戦う意志の無いことを示すのに、

将軍の側に新選組がいてはまずい、と勝海舟は思ったようです。

そして江戸から新選組を出す事を思いつきます。

勝は近藤に10万石の禄高と若年寄格の地位を約束し、甲府(現・山梨県)を鎮撫

(治安維持)することを命じました。

甲府行きが決まり、土方歳三は近代戦に適応させるために服装も一変します。

マントを一着購入し、ズボンは全員にも支給。おそらく上は着物で、その上から

ズボンをはく形だったと思われます。(旧幕府軍とつながりのあったフランス軍からの購入??)

そして近藤勇は名前を大久保剛、土方歳三は内藤隼人 新選組甲陽鎮撫隊

改名します。(しかし後に新選組に戻ります。)

甲陽鎮撫隊は3月1日に出陣しますが、 何故かその日は内藤新宿の女郎屋を借り切って

飲み明かし、 その翌日は故郷の多摩地方の親戚縁者にも会いに行っています。
寄り道をしたのは義勇兵を募るためだったとも、すでに諦めていたとも、また自惚れていたとも、
現代では様々な憶測がありますが 、真意は謎です。

甲州に入ったのは4日でしたが、同日すでに新政府軍は早々と甲府城入り。

甲府城代は新政府軍に逆らわずに恭順をしめしたため、あっさりと新政府軍の手に落ちたのでした。

しかしそれでも戦闘開始となります。甲陽鎮撫隊は総勢約200人、新政府軍も200人

前後と同格でしたが、やはりここでも兵器の差により完敗。死者は2名確認。

6日に土方歳三が援軍を求めるために早駕籠で江戸方面へ向かいますが、 徳川の権威も

失墜しており、援軍は得られませんでした。

結局近藤達もすぐに甲州を出、8日には八王子、9日夜半には故郷の日野を通過。

そしてこの敗走中から、永倉新八は近藤勇のやり方に憤り、原田左之介ら数名と共に

江戸で新選組(甲陽鎮撫隊)を去り、総勢約50〜100人の靖兵隊(せいへいたい)

を結成します。

また、新選組結成前からの同志、試衛館メンバーが去ったのでした・・。

再び甲陽鎮撫隊から新選組に戻った近藤達は、新選組再建に向けて隊士を募集し、

再び200名ほどの人数になります。

一方その頃、3月14日に幕臣・勝海舟西郷隆盛と会談し、江戸城開城を決定。

新政府は五箇条の誓文を発布。着々と新体制をととのえようとしていました。

江戸開城を決定し、なんとか徳川の恭順姿勢が官軍に受け入れられたものの、

勝海舟は新選組の暴発をなお恐れ、数回にわたり部下を近藤の下へ派遣し、

暴発をしないように説得させていました。

しかし近藤は恭順姿勢の勝を無視し、新選組を再建させようとします。

新選組は下総流山(現・千葉県)に行き、そこに陣を構え、新入隊の兵士達を訓練する予定でした。

ところが新選組は新政府軍が急速に下総にも迫っていることに気づいていませんでした。

ページTOPへ


■近藤勇の最期■

慶応4年(1868年)4月3日、近藤や土方ら数名は、新隊士たちのいる本陣にはおらず

長岡屋という所にいました。

その長岡屋新政府軍包囲されてしまいます。

包囲された時、どういう会話があったのかという話は、いろいろあり、真実は謎です。

近藤勇は「切腹する」と観念し、土方歳三が「犬死だ」と言って反対したとか。

結果的に近藤勇は切腹せずに大久保大和として投降するのですが、これに関しても、

「変名の大久保大和を使えば近藤勇とはばれないだろう」と思っていたとか、

いろんな話があります。

ちなみに「徹底抗戦」の本音は言わず、敵対する意思はないと新政府軍には説明したそうです。

しかし4月3日に投降した時点で、新政府軍の彦根(現・滋賀県)藩士の一人に

近藤勇のようだ、とばれ、 さらに4月4日、江戸板橋宿へ護送されたおりには、

元・伊東甲子太郎一派で、 薩摩藩のお預かりとなっていた加納鷲雄と対面し、

近藤勇である事が完全にばれてしまいます。

一方土方歳三は、運良く新政府軍に顔がバレなかったのか、4月3日の近藤投降の後、

夜中に脱出し江戸へ向かい、翌日4日に勝海舟に会見。

近藤勇の助命を要請します。
さらに土方歳三は、もらった助命嘆願書と自身の書状を添えて、後に新選組最後の

隊長となる相馬主計(そうまかずえ)に託し、 再び旧幕府軍と合流します。

そこで土方歳三は函館まで榎本武揚と行動を共にする幕臣・大鳥圭介とも会います。

嘆願書を託された相馬。しかし彼は捕らえられ投獄されてしまいます。

しかし土方歳三の依頼により、近藤に剣を指導されていた幕臣・福田平馬が なお

近藤勇の助命嘆願を働きかけます。

取り残された新選組隊士達は100名ほどが脱走。残りの 100数十名は、

新選組幹部による協議で会津へ向かう事になりました。

4月11日は江戸開城―――

4月25日、近藤勇・新選組局長、板橋にて斬首
処刑になった理由の一つに、、坂本龍馬と中岡慎太郎を暗殺した極悪人という
官軍側である土佐藩士の恨みがありました。
実際には近藤勇は坂本龍馬暗殺には関わっていないというのが現代の通説ですが、
新選組の局長ということで、 犯人である、と官軍の土佐藩士は信じて疑わなかったのです。

京時代、「幕府の警察隊」として、悪党=倒幕派、過激攘夷志士を捕縛斬殺 していた新選組。

時代が逆転し、倒幕派=朝廷側=正規の官軍となったため、新選組は警察隊から

テロリストの扱いに変わったのでした。

しかし局長近藤勇を失っても、新選組は残ります。

近藤勇がいなくなった後の新選組は、会津(現・福島県)を含めた北へ転戦して行き

副長・土方歳三が負傷の時は斉藤一(山口次郎と変名)らが新選組を引っ張っていきます。

しかし常に新選組が一体となって行動するというわけではなく、 戦闘で混乱の中、

時に土方や斉藤が別行動を取ることもしばしばで、資料からは、どう動いていたのか

わからない所も多いようです。

会津で斉藤一とも別れた土方歳三は新選組隊士と共に仙台で榎本武揚率いる軍艦に乗ります。

榎本武揚は旧幕府海軍副総督で、新政府軍への軍艦引渡しを拒否し、 8月19日に

江戸を脱出していました。この時、勝海舟は真っ青になったとか。

そして蝦夷(北海道・函館)へ行きます。

10月21日、榎本武揚、土方歳三、大鳥圭介ら旧幕府軍は蝦夷に到着。

12月15日に蝦夷地を占領。

ページTOPへ


<6・新選組散華 最後の新選組隊長> 明治2年/1869年

蝦夷共和国」を旧幕府軍で作ろうとした榎本武揚達でしたが、 土方歳三のように

連戦を重ねた者や戦術家が上層部には乏しく、新政府軍と戦闘を重ねるうちに、

次第に戦意を失っていきます。

最後まで徹底抗戦をした土方歳三と新選組隊士でしたが、5月11日、土方歳三が戦死

5月18日には榎本武揚ら旧幕府軍と新選組も降伏します。

鳥羽・伏見から続いた戊辰戦争の終焉です。

土方歳三の戦死後は、相馬主計が新選組隊長代理となり、 旧幕府軍が降伏した後は、

隊士の統制を維持させるためか、箱館奉行の永井玄馬の命により、

最後の新選組隊長となります。

相馬は榎本達と共に東京(すでに江戸から東京に改名)に送られます。

一度、近藤勇の助命嘆願奔走の際に投獄されている相馬主計は、 再び新選組隊長

ということで、実際には関わっていなかったのですが坂本龍馬暗殺の件などについて厳しく

追及され、 明治3年、相馬は旧幕府軍の中でも最も罪の重い罰である終身流刑

なって 島流しとなります。

ところが明治5年、 流刑は廃止となり、最後の流刑囚でもあった相馬は赦免。

東京へ島の妻子と共に帰った相馬へ、すでに罪を許され新政府の一員となっていた

榎本武揚から、鳥取県令に推挙しようと言う連絡が入ります。

しかし相馬は丁重に断ります。

そして自宅にて割腹自殺。相馬主計・享年30歳。

新選組隊長としての責任か、それとも新時代に対する複雑な気持ちがあったのか、 割腹の理由は
はっきりとはわかりませんが、おそらく、新選組隊士としての責任を感じていたのだろう・・というのが、
管理人の推測です。(でも暗殺説もあります)

どこで新選組の最後とするか・・というのは、人によってまちまちです。
ここでは相馬主計を最後としましたが、 近藤局長の斬首、土方副長の戦死を持って
新選組は崩壊したと位置づける場合もよくあります。

個人的には、いわゆる「イメージや組織としての新選組」が崩壊したのは、
鳥羽・伏見の戦争後だと思います。 徳川慶喜将軍が脱走した時点で、指針を失い崩壊した
、とも言えると思います。
ただ新選組の魅力というのは、結局は個人個人の隊士の魅力の集合体で成り立っているので、
実は組織が崩壊した後から魅力が増してくるという部分もあります(笑)

もくじ

  1. 誕生 1863年

  2. 池田屋事件
    1864年

  3. 隆盛期
    1865年〜1866年

  4. 崩壊 1867年

  5. 鳥羽・伏見の戦
    1868年

    近藤勇の最期

  6. 最後の新選組隊長 1869年

ページTOPへ

 

HOME   サイトマップ

copyright(c) 2004 makotoan all rights reserved

[PR]看護師の好条件な求人情報満載:「夜勤は嫌!」など希望の転職が実現♪