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 幕末人物紹介

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坂本龍馬(さかもとりょうま)写真


(天保6年11月15日〜慶応3年11月15日/1835年1月3日〜1867年12月10日)
享年・数えピッタシ33歳(満年齢・32歳)


<<生い立ち>>
坂本龍馬は、父・八平母・幸のもと、また兄権平21歳、千鶴=ちづ19歳、栄(年齢不詳)、乙女4歳の時、高知城下本丁筋(現・高知市 上町=かんまち 1丁目)で、商人郷士・坂本家の次男として生まれました。

龍馬が胎内にいる時、母・幸は雲龍奔馬が胎内に飛び込む夢を見たそうです。
そしてそこから「龍馬」と名付けたと言われています。
生まれたときには背に馬のような毛が生えていたとか(笑)。

龍馬の少年期は泣き虫だったそうで、12歳の頃に、楠山庄助の私塾に通ったものの、いじめられ、少年との喧嘩がもとでやめてしまったそうです。
13歳の頃には・幸が病没。
乙女など姉達が龍馬の母代わりとなります。
(ただし姉千鶴は1963(文久3)年病没)

龍馬は14歳まで寝小便をしていたという話が残っていますが、一方その年1848(嘉永1年)は同時に城下築屋敷日根野弁治の剣術道場に通いだし、5年後、19歳の1853年(嘉永6年3月)に「小栗流和兵法事目録」1巻を伝授されます。
(龍馬が小栗流を学ぶのは、1861(文久1年)の10月、27歳の時までのようです。その後は脱藩し国事に走ります)

目録伝授された後、同年1853年に剣術修業のため江戸に出発、江戸京橋桶町・北辰一刀流千葉定吉に入門します。
さらに同年12月、佐久間象山に入門し、砲術を学びます。

ペリー来航時(再来航の時?)、龍馬は沿岸警備の一員として加わり、「異国の首を討取って帰国したい」と父宛に手紙を送っています。
実際の龍馬は、この頃は血気盛んな攘夷論者だったのでした☆

江戸修業を始めてから約1年後1854(安政1)年6月、剣術修業満期、江戸から土佐へ帰国
その年の秋頃、絵師であった河田小龍に会い、
世界情勢について啓発を受けます。
★小龍は、絵師でありながら、薩摩(現・鹿児島県)に出張し反射炉や様式の諸設備を視察してくるなど、西洋文明についての知識者でありました。
「海運を盛んにし、西洋文明を取り入れ、富国強兵を実現せねばならない」と説いたといわれています。後の龍馬の「海援隊」の発想元となったのでしょうか。

そしてその後、小龍の門下生であった近藤長次郎たちと出会い、のちに共に海援隊士となります。

22歳の頃、1856年(安政3年8月)に2度目の剣術修業を1年許され、土佐(高知)を出発し、前回同様、江戸の千葉道場に行きます。

1858年(安政5年1月)24歳「北辰一刀流長刀兵法目録」一巻を伝授されます。
そして同年9月に土佐へ帰国
★管理人の独り言
この江戸修業の期間、社会情勢は日米修好通商条約調印や、時の13代将軍・徳川家定が死去し将軍継承問題が浮上し、大きく揺れ動いていました。
しかし当時の龍馬はまだ何をすることもなく、もっとも寂しい思いをしていた時期であった、というような話を、管理人はどこかで読んだ気がします。

龍馬が土佐へ帰ったすぐ後、1858年(安政5年10月)、大老井伊直弼が幕府にとって危険人物をみなす者を捕らえる=安政の大獄を実施。 翌年には橋本左内、吉田松陰が処刑されます。

土佐にいた龍馬は、翌年の1859年(安政6年)に土佐藩西洋砲術家の徳弘孝蔵門に入門、砲術を再び学びます。

江戸から土佐へ帰国してから3年後、1861年(文久1年8月)龍馬27歳の時、江戸にいる土佐藩士・武市半平太らが江戸で「土佐勤皇党」を結成。その事が龍馬にも伝えられ、龍馬も土佐で血判加盟。
ちなみに10月には「小栗流和兵法三箇条」を伝授されます。
そしてこの頃から、剣術詮議のためと称して、長州方面に旅をし、志士たちと接触。


翌年1862年(文久2年1月)28歳、武市の使者として長州(現山口県)萩城下の、久坂玄瑞を訪れ、さらに大坂をまわって土佐へ帰国。
すでに松陰処刑によって、倒幕へと動き出そうとしていた長州藩士たちの影響は、龍馬にとっても大きかったと思われます。

<脱藩〜大政奉還>
長州や薩摩と違い、土佐の藩論に期待できないと知り、同年の1862年(文久2年3月7日)、同じ土佐藩士の吉村寅太郎が脱藩、それに続き、同月24日、地下浪人沢村惣之丞と共に、龍馬も脱藩します。
長州、九州、大坂、京都を経て江戸へ向かいます。
(もちろん当時は自転車も電車もありません(笑))
そして再び江戸・千葉道場へ。千葉家の世話になります。

その後江戸藩邸の松平春嶽を訪れ、勝海舟と横井小楠への添書(紹介状)を受け取り、10月に勝海舟のもとへ千葉重太郎と訪問。
有名な話では、攘夷志士であった龍馬は、開国論の勝海舟が気に入らないとして斬りに行くつもりで訪問したが、実際に勝つの話を聞いたらすっかり勝に心酔して しまったということだそうです。
が、実は一介の浪士であった龍馬が、なんで将軍一族である松平春嶽と繋がりがあったのか、本当に勝海舟を斬りに行くつもりで訪問したのかは謎です。

とにかく龍馬は勝海舟の弟子となり、共に幕府の軍艦で品川から京へ。


近藤勇たちが浪士隊として京へ向かった文久3年2月(1863年)、龍馬も京におり、7日間の脱藩罪による謹慎後、脱藩の罪が許されます。
が、勝の側にいたかったと思われる龍馬は、土佐藩から召還命令が出ても土佐へ帰らず拒否、再び脱藩の身となります。

龍馬は幕府からも危険視されていた勝海舟と行動を共にする事が多く、神戸の海軍操練所の塾頭にもなります。

※文久3年(1863年)からについては、「新選組の流れ」もご覧下さい。


元治元年4月(1864年)にはお龍(おりょう)と出会い、のちに寺田屋のおかみのお登勢に預け、のち結婚。

慶応1年(1865年)には同郷の同志・中岡慎太郎と共に薩長同盟を成立させます。
そして海運業の亀山社中(後の土佐海援隊)を薩摩のバックアップで設立。
長州の武器購入を助けます。

慶応2年(1866年)には1月に寺田屋で伏見奉行所配下に襲撃され、その折に手を負傷
薩摩の西郷隆盛の宿舎にて傷養成後、中岡慎太郎のすすめにより、お龍と共に旅行(現代では日本人初の新婚旅行と言われる)。

その後幕府と長州の海戦時(長州征討)には、長州・高杉晋作の指揮下に入り、高杉と共に戦況を観戦。

慶応3年(1867年)4月には土佐藩参政の福岡孝弟と会い、再び脱藩罪を許されます。
そして亀山社中を土佐海援隊に改名。
その後は「薩土盟約」を再び中岡と成立させ、武力倒幕論を抑えようと奔走したり、海援隊運営に奔走。
海援隊は英国軍艦との事件にもまきこまれ、その事件解決に向けても奔走しています。
また大政奉還案の元になる船中八策も示し、後に幕臣・永井尚志(近藤勇が身辺警護をしていた人物)にも10月に説いてます。

しかし11月に京都・近江屋にて襲撃され闘死。(中岡も撃たれる)
龍馬より2日ほど長生きした中岡の証言によると、
龍馬は最期に自分の刀を見て「ざんねん、ざんねん」と、
「わしは脳をやられた・・もうだめだ・・」 というふうな事を言っていたそうです。

 


★坂本龍馬は倒幕派??
文久3年からの龍馬の活動は、あっちゃこっちゃと行っており、とてもここでは紹介できないのですが(汗)、どうも龍馬の全体を見ていくと、もともと倒幕思想のうすい人物だったように思われます。

坂本龍馬は土佐藩に対する嫌悪はあったでしょうが、長州藩や薩摩藩の世話にはなっている一方、幕臣である恩師の勝海舟や、開明思想を与えてくれた横井小楠たちともよく会っています。

勝は「幕府は駄目だ」と言っていたとはいえ、最期まで徳川には尽くします。
そういう恩師に対して、刃を向けるような行動をとるのかどうか・・謎です。

なんとなく、薩長の力は認めていたものの、国を運営する上での政治力や統率力は、幕府抜きには難しいと考えてもいたかもしれません。
当時の感覚からすれば、現実的かなとも。
実際、倒幕派が勝ち新政府軍ができても、発布された「五か条のご誓文」は、徳川の封建社会とそんなに変わらず。
薩長は倒幕が目的で、倒幕後のビジョンには乏しかったと言われているので、そのへんの薩長の力を考慮した上での大政奉還案だったともとれます。

薩長同盟で長州の武器購入を援助したのも、幕府よりはるかに少ない兵士数である薩長両軍が、幕府を倒してしまう可能性があると考えていたのかどうか・・。

それに龍馬の大政奉還案は、実際に将軍に受け入れられる1年以上も前からあるのですよ・・・。
龍馬にとっての目的は日本各地で貿易をすることだったので、幕府と薩長が争うのは、都合が悪かったのかもしれません。

 


写真・坂本龍馬
坂本龍馬(晩年のもの?)
寺田屋騒動時の指の負傷跡があったため、
手で隠しているのではないかという説があります。


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