(天保13年6月1日〜慶応4年5月30日/1842年7月8日〜1868年7月19日)
※生年は1844(弘化元)年説もありますが、ここでは42年説を取ります。
享年・数え27歳(満年齢26歳)
※確実な資料が無いためか、沖田の享年は様々な表記があります。
・総司の顔についてはコチラ
総司の名前
幼名は惣次郎(または宗次郎)沖田総司の名前は他にも、姓は藤原で名は房良=かねよし というのもあり、さらに、日野八坂神社の献額には沖田惣次郎春政と記されているそうです。
総司の墓には、「新選組隊士」であったことを隠すため、わざと幼名で名を刻んだという話がありました。(名前について)
■生い立ち■
沖田総司は 白河藩(現・福島県)の足軽頭であった沖田勝次郎の3子で、長女ミツ(光)、次女キンに次いで長男として江戸の同藩藩邸にて生まれました。
父・勝次郎は総司が4歳の時(1845年/弘化2年)の時に死亡。
母親に関しては資料がありませんが、おそらく総司の幼少期に亡くなったと思われます。
<近藤勇との出会いまで〜沖田家と近藤家>
総司が9歳の時、長女ミツは1851年(嘉永4年8月26日)に林太郎と結婚していますが、この結婚には、少々ややこしい手続きがあり、そしてそれによって?総司が近藤勇と出会うことになったようです。(以下に説明)
説明:
井上林太郎(のちのミツの夫)は、総司が生まれる前、結婚前から沖田家へ養子に入っており、ミツや総司とは戸籍上、兄弟関係(おそらく戸籍上の長男?)になっていました。
よって「兄弟で結婚はまずい」ということだったのか、いったんミツが戸籍上沖田家を離れて、近藤勇の養父である近藤周助の養女となった上で、改めて林太郎と結婚したようです。
沖田家と近藤家の関係がどうだったかはわかりませんが、林太郎の出身が、近藤と同じ多摩の家で、その井上家と近藤家につながりがあったのかもしれません。
ただ、沖田家と井上家がどのような関係があったかはわかっていません。
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<近藤勇との出会い>
上記のようなミツと近藤周助の関わりがあってか、姉・ミツの夫となった林太郎が沖田家を継いでから間もなく、総司は9歳で近藤周助の主催する試衛館道場に住み込みの弟子として入門しました。
総司が試衛館に入門した時、近藤勇はすでに天然理心流の目録を取り、近藤家(か近藤周助の生家)の養子となっていました。
1851年(嘉永4年)沖田総司9歳、近藤勇が18歳の時の出会いでした。
(ちなみにこの時土方歳三は、呉服屋へ奉公に行っていた・・?)
<総司の剣術>
入門してから11年後、20歳の頃の沖田総司は、すでに免許皆伝の腕の持ち主になっており、試衛館道場で師範代(=師範(近藤周助や勇)に代わって教授すること)まで勤めるようになり、また、近所の門弟たちにも出稽古に行き教えていました。
土方歳三の義兄・佐藤彦五郎の道場にも行っていたと思われます。
やさしいイメージのある沖田総司ですが、剣を教える時はとても乱暴だったようで、門弟達からは近藤勇よりもずっと恐ろしがられていたそうです(笑)。
試衛館道場には、近藤、土方をはじめ、のちの新選組隊士となる人物がたくさんいましたが、その中でも総司はずば抜けて腕が立ったようで、 「みんな竹刀をもっては小児(こども)扱いにされた」そうです。
おそらくは、本気で立ち会ったら先生(ししょう)の勇もやられることだろうとみんな言っていた」と、新選組・生き残り隊士の永倉新八が後年語っています。
が、これを語った永倉新八が、実は新選組の中で一番腕が立ったという話もあります(笑)。
永倉新八と沖田総司が試合をした記録というのも、あるのかわからないので、どちらが腕が立つのかはわかりません。
新選組時代も、1番隊組長が沖田総司、2番隊が永倉、3番隊が斉藤一と、3人とも後世の人に「剣の達人」と言われているので、腕が立った事は間違いないのでしょうが、この順番が、はたして剣の腕の順だったのかどうか謎です。
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新選組時代の沖田総司は、副長助勤から一番隊隊長と撃剣師範を兼任。
新選組結成から、大坂の相撲乱闘事件で喧嘩して負傷したり、芹沢暗殺にも加わったり、わりに元気だったようですが、池田屋事件で結核により吐血したと言われています。
その後は脱走した山南敬助の介錯もしています。
大政奉還の頃にはすっかり病床に臥していたいたようで、鳥羽・伏見の戦いには出ず狙撃され負傷した近藤勇と大阪に下っています。
その後も病身は変わらず、最後は江戸・千駄ヶ谷の植木屋で静養後病没。
ちなみに結核という病は、感染から発病までの期間があり、吐血するのはかなり病状が悪化してからだそうです。
せきがごほごほ出る期間が長くあった後に吐血となるらしいです。
・・・ということから、新選組結成からおおよそ1年後の池田屋事件(1864年)の時には、病状がかなり進んでいたと思われます。
でも亡くなるのは1868年ですから、結核にかかっても丈夫な方だったのでしょうか、徐々に病が悪くなるという状況だったのでしょうか。
結核は現在では薬で治る病気。癌のような難病ではないらしいので、病気の進行具合もゆるやかだったのかもしれませんが、謎です。
それと子供好きだったと言われている沖田総司ですが、感染するとわかっている結核にかかったとわかった後でも子供と遊んでいたのかも謎です。
(そもそも本人がいつ結核であると自覚したのかも謎)
と、実は結構わからない面の多い沖田さんです・・。
<沖田総司の顔>
★「ひらめのような顔だった」という証言が残っている沖田総司は、写真を残しておりません。(2005年1月現在)
残されている沖田総司像は、姉のミツの孫がとても総司に似ているということで、総司の肖像画を描かせたそうです。
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<総司の姉>
総司は両親や姉達と幼少期に別れているため、身内との縁は薄かったといわれています。
大河ドラマでは、ミツが深く関わってくるようですが、実際には、どこまで関わりがあったかはわかっていません。
おそらく総司にとっては、血縁者よりも近藤勇の方が近い存在だったと思われます。
総司の次姉キンとの話は、全くと言っていいほど出てこないのですが、おそらくそれくらいに、縁がなかったのだろうと思います。
余談になりますが、その次姉キンの嫁ぎ先は、『里見八犬伝』を書いた滝沢馬琴の遠縁にあたる所だったそうです。
(詳しく書くと:越後三根山知行所の牧野伊勢守忠泰(ただひら)の臣である中野伝右衛門由秀に次姉キンは嫁ぎ、その由秀の曽祖父の中野伝右衛門宗元は家老職にあり、滝沢馬琴の祖父滝沢左仲興吉(たきざわすけなかおきよし)の弟ということです(^_^;)
幕末人物紹介
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