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永倉新八(ながくらしんぱち)写真 

(天保10年9月5日〜大正4年1月5日/1839年10月11日〜1915年1月5日)
享年 数え77歳(満年齢75歳)

 

永倉新八は陸奥国松前(現・北海道)藩士の永倉勘次(=かんじ) の子として江戸で生まれました。

15歳の時、岡田十松の所で神道無念流を学び、18歳で本目録を受け取ります。剣の上達は早かったようです。
自分の剣の腕試しをしたい、 という思いが強かったようで19歳で脱藩し、「武者修行」として旅に出ます。

旅は20代前半の間行われ、同門の市川宇八郎(=うはちろう) と他数名??と行き、各地で道場破りをしたと伝えられているそうです。 (一体どこを旅していたのかは不明)

近藤勇たちとの出会いも「道場破り(荒し?)」から だったのかは謎ですが、食客として近藤勇の試衛館道場に寄宿していた時に(いつから食客だったのかは不明)、 彼らと共に浪士隊募集に参加し、京へ上ります。(浪士隊募集の情報を永倉が持ってきたという説あり)

新選組時代としての永倉新八の活躍が目立つのは、池田屋事件で近藤隊として参戦してからです。
その後鳥羽・伏見の戦いから江戸への敗走という困難があるのですが、本人の体験談ではけっこう勇猛果敢で面白おかしく語られ、自画自賛しています(笑)

でも鳥羽・伏見の戦の時、身にまとった装備が重たすぎて塀を越えられず、島田魁に引っ張ってもらって助けられたという話もあります。

江戸敗走で将軍は自ら謹慎生活という中、永倉は島田魁らと遊びまわり喧嘩騒ぎも起こして2人も斬り倒し、自身も目の下を斬られ負傷するという無茶もしています。。
宿舎で土方さんに「軽い身ではござらぬ。自重さっしゃい!」と叱られたそうです。
かなり血の気の多い人物だったと思われます(笑)

ついでに永倉新八は京時代にも無茶をして叱られています。
それは伊東甲子太郎や斉藤一と一緒だったのですが、慶応3年(1867年)の元旦から島原遊郭の角屋で3日も飲み明かします。
ちなみに4日もいて、ついに近藤局長から帰隊命令。
新選組には門限がありましたが、土方副長と並ぶ参謀職にあった伊東がいたせいか、永倉も調子にのってしまったようです・・。

本来なら切腹という所ですが、伊東は局長と、斉藤は副長と話し、謹慎処分でしたが2人とも2〜3日で元通り。
(斉藤は土方に伊東(永倉?)をマークすることを頼まれていたとも)
永倉だけは以前に近藤を糾弾する建白書を京都守護職に提出していたこともあり、謹慎処分も長かったようです。

永倉は原田たちと、池田屋事件後の元治元年8月(1864年)にも、「近藤がわがままで専制君主的になっている」と京都守護職の松平容保会津藩主に建白し(訴え)ています。


江戸試衛館道場からずっと近藤たちと行動を共にした永倉。
しかし京から江戸へ敗走し、さらに江戸から甲陽鎮撫隊(新選組の変名)として甲州へ行きます。
その甲州敗走の頃から近藤のやり方に立腹した永倉は原田左之介らと共に新選組を脱退

永倉の話によると、甲陽鎮撫隊で敗走となったとき、近藤勇が
「隊士は永倉・原田に任せる。後、江戸で落ち合うことにしよう」
と言ったので(ちなみにこの頃、土方は援軍を求めに江戸へ行って不在)、永倉は先の事も考えて
「京で世話になった会津藩主・松平容保候のいる会津藩を死に場所として行こう」
と決めたそうです。
しかしその翌日、近藤と土方にその決議の次第を告げると、近藤が
「一同が拙者の家臣となって、粉骨砕身働くというなら、同意致してもよいが」
と言ったものだから、永倉は「同志とは思っても家来になるつもりなどない」と憤慨して決別することに決めたそうです。

そして新選組を去った後、永倉は旧友かつ旧幕臣の芳賀宜道(市川宇八郎)を隊長として靖兵隊(せいへいたい))を結成。
宇都宮、会津などを転戦しますが、やがて戦線を離れて江戸へ戻ります。
戊辰戦争が終結した年である明治2年(1869年)に松前藩に帰参
翌年には北海道へ渡り明治6年に元藩医の養子となり杉村義衛と改名。
剣術を教えていたそうです。
一時期東京へ戻りましたが、その後は北海道に戻り、晩年は小樽で過ごしたそうです。

近藤と喧嘩別れした永倉ですが、維新後、近藤・土方を弔うために、近藤勇が処刑された板橋に墓をたてています。

 

・・生涯、新選組であったことを誇りに思っていた永倉新八。
近藤勇とは決別したものの、新選組時代の仲の良い話も残っています。

永倉新八は、大変な時代に生きたわりには、あまり憂いを感じさせない豪放磊落な人柄が浮かびます。
賊軍として明治以降も生き残りますが、そこから「人間永倉」が表に出てくるようです。そのためか、小説上の永倉は、明治以降の話の方が多く見られる気がします。
実際に維新後、永倉は暗殺した伊東甲子太郎の実弟の鈴木三樹三郎とばったり会い、命を狙われたこともありました。

長生きした分、いろんな思いもしたでしょうが、新選組の主要メンバーの中では、最も幸福な人生を送った一人かもしれません。


★永倉は長生きしたため、新選組に関する記録を残してくれています。(『新撰組顛末記』など。書店で販売しています。)

  
永倉新八
の写真

画像提供「幕末維新館
 

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