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幕末人物紹介
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桂小五郎 (かつらこごろう)
→木戸孝允(きどたかよし・こういん)写真
(天保4年6月26日〜明治10年5月26日/1833.8.11〜1877)
享年・数え45歳(満年齢・44歳)
名前は、慶応元年(1865)9月29日、藩命により木戸貫治と改名。その約1年後には準一郎とさらに改名。
現在では「木戸孝允」として有名ですが、この孝允は諱なので、当時この名前で呼ぶことはなかったかもしれません(詳細未確認)。
<生い立ち>
桂小五郎は長州藩医・和田昌景の子として生まれました。
長男として生まれたのですが、 和田家はすでに跡継ぎを養子に迎えていたため、後に桂九郎兵衛の養子になります。
17歳の時に、当時、山鹿流兵学師範だった吉田松陰(1830〜1859)の門下生となっています。
剣術は20歳の頃に千葉、桃井とならぶ江戸の三大道場の一つであった斉藤弥九郎道場に入門し、後に塾頭となりました。
しかし生涯刀(真剣)を抜いたことがかなかったと言われています。
その後も兵学や蘭学を学び、25歳で藩に登用され26歳で江戸藩邸詰、30歳で右筆(ゆうひつ:老中・若年寄の書記)となり以後、長州の政務に関わっていきます。
池田屋事件(1864)の時、京の長州藩邸の責任者であった桂は運良く難を逃れますが、池田屋で死んだ同志を見殺しにしたと言われ、どうやらそのあたりから「逃げの小五郎」と言われたようです。
他にも会津藩に捕まった後、上手く逃げたという話もあります。足も速かったようです。
長州藩は、藩内の攘夷運動で外国船と戦い敗北し、その後禁門の変(1864)で朝敵となり京から追い出され、また藩の内部でも倒幕派と佐幕派の対立があり政権の奪い合いがあり、混乱の連続でした。
桂はそんな中、ひたすら逃げて生き延びることに徹したようです。次々と指導格の志士が斃れて行った中で、この人が生き延びていたからこそ長州藩は明治維新の担い手となることができたとは言えそうです。
木戸は明治維新を成し遂げ、新政府に入り参与となり、明治新政府の基本方針を定めた「五箇条の御誓文」の作成に参加。他、版籍奉還、廃藩置県などを薩摩の大久保利通らと共に行いました。
その後維新の功労者達と共に岩倉使節団の副使として欧米を視察します。
しかし国内は 行き場を失った武士達が次々と反乱を起こし、明治9年(1876)長州からも吉田松陰の門下生であった前原一誠が「萩の乱」を起こします。翌明治10年は西南戦争。木戸はいずれも鎮撫使を願い出ますが認められず、最期まで西南戦争を憂いて病没。
後世では薩摩の西郷隆盛、大久保利通と並ぶ「維新の三傑」として有名です。
@補足@
長州藩と言えば、吉田松陰の松下村塾なしには語れませんが、桂小五郎は松下村塾の門下生ではなかったと言われています。
桂は松陰が兵学師範をしていた頃にすでに出会っているので、それから7年後の松下村塾ができた頃にはすでに旧知の仲でした。
的を射た人物評をした吉田松陰の桂評は、
「桂じつに事をなすの才あり、胆略と学問乏しきは残念なり。・・・」
と、意見が対立して怒っていた時の評なので少々辛口?です(笑)
しかし松陰は桂を信頼し尊敬していたという話も残されています。
どうもこの人は維新最大の功労者のひとりでありながら、現代ではいまいち影が薄い感があります。
長州は、ヒーローとしては高杉晋作が、パイオニアとしては吉田松陰が、軍の指導者としては大村益次郎が、そして維新後は伊藤博文が初代総理大臣になったというわけで、彼らの板ばさみになって取り上げられるのも小さくなってしまっているという所でしょうか(^_^;)
あまり本人の苦労が表面的な行動に出ていないというのもあるのかもしれません。
上記の略歴には書きませんでしたが、途中で隠居しようとしたり病で倒れたり、これは高杉晋作ら他の志士にも言えることですが、長州は動乱の中で変化が激しい上に理屈や道理で割り切れない状況が多々あるので、とてもややこしいです(汗)
私自身、木戸に関しては、
最初は「生き延びたから維新の三傑に入ったのだろう」くらいに思っていたのですが、本人が残した詩・文などを見てから見方が変わりました。”泣き”が入る文が多かったように思いますが、どことなく素直で可愛らしいなぁと。この人は「憂」という字がとてもあてはまる人物ですね。
桂こと、木戸孝允は写真がお気に入りだったようで、志士の中では数多くの写真を残しています。

写真・桂小五郎
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