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土方歳三(ひじかたとしぞう)写真 

(天保6年5月5日〜明治2年5月11日/1835年5月31日〜1869年6月20日)
享年・数え35歳(満年齢34歳)

 

<生い立ち・少年期>
土方歳三(いみなは義豊=よしとよ)は、武蔵国多摩郡石田村(現・東京都日野市)に、農家の土方隼人(いみなは義諄=よしあつ)の4男として生まれました。(名前について) (土方家の事)

兄弟は長兄が為次郎(ためじろう)、次男が喜六、三男が大作、次に長女のノブ、そして末っ子が歳三となります。
(歳三の上にはもうひとり姉(女児)がいたそうですが、結核で亡くなったようです)

父・隼人は、歳三が生まれる3ヶ月前に病気(結核)で亡くなり、 母・恵津も、歳三が6歳の時に結核で亡くなりました。
また、長兄の為次郎は失明していたため、家は次男の喜六(のち隼人と変名)が継ぎ、歳三はその次兄喜六と、その妻なかによって養育されます。

少年期の土方歳三は、村では顔に似合わず「バラガキ」と呼ばれ、触ると痛い茨(いばら)のような乱暴な少年だったそうです。
また、土方生家には、歳三が少年の頃に「武士になりたい」と言って植えたというがあります。

歳三は家業の農家を嫌っていた?こともあるのか、11歳の時に江戸上野の松坂屋呉服店に丁稚奉公(でっちぼうこう)に出されます。
しかし1年とはいず、番頭と喧嘩をして飛び出し、上野から多摩までの9里(約35.1キロ)の夜道を、たったひとりでテクテクと帰ってしまったといいます。

帰ったといっても、その先は姉ノブ夫婦がいる佐藤彦五郎宅だったようで、その後も歳三は日野の佐藤宅におり、使い歩きなどをしていたそうです。

また、13、4歳の頃から歳三は、家伝薬の「石田散薬」を作る作業の総指揮をやらされていたといいます。
薬を作る作業は、草を刈って乾し、また黒焼きにしたり・・と、村中の男女を動員せねばならない作業であったそうです。

17歳(18歳他の説もあり)の時、大伝馬町の呉服屋に歳三は再び奉公に出されます。

しかし今度は同じ奉公人の女中と問題をおこし、再び多摩へ帰ってきてしまいます。
帰ってからこの一件が彦五郎に知られ、さんざん叱られ、その夜のうちにまた独りでテクテクと江戸へ引き返し、綺麗に解決をつけて帰ってきたそうです。

2度の奉公が失敗に終わった後、歳三は、家伝薬「石田散薬」を売り歩いたと伝えられています。

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<歳三と剣術>
歳三が何歳頃から剣術の修行を始めたかについては、史実としては残っておりません。
ただ、義兄の佐藤彦五郎が、歳三が14、5歳くらい?の頃すでに、先に近藤勇の養父である近藤周助の所に入門しており、また佐藤彦五郎の道場に近藤勇が出稽古に(教えに)来ていました。
近藤勇が、佐藤彦五郎の道場にいつから来ていたかは不明ですが、歳三はそこで近藤勇達と仲良くなったのではないかとも思われます。
また、石田散薬の効能は「打ち身に効く」というこで、あちこちの剣術道場へ売り歩いていたそうなので、そこで歳三自らも剣を学ぶようになった、という説もあります。

歳三が薬の行商をする時は、剣術道具を薬箱にくくり付けて売り歩いていたそうです。
そして行商で剣術道場へ行っては教えを乞うたり試合を申し込んだとか。
この頃の歳三は如才のない愛嬌者で、しかも女のような物優しい顔だったので、何処でも親切に扱ってくれたそうです。

剣術の稽古をする際、身に着けていた面のひもは真っ赤であった(普通は白)そうです。

土方歳三が近藤勇の所に入門したのは、竜源寺にある資料によれば1859年(安政6年)の春、歳三が25歳の頃となっています。が、実際に歳三が天然理心流を学び始めたのは10代という説もあります。
ある説によると、歳三の剣は癖が強く、近藤勇の養父である周助が、何年も正式入門を許さなかったとも伝えられているそうです。

天然理心流は、入門から切紙という免許状を与えられるまでに約1年かかり、それから目録、中極位目録を経て、免許皆伝までには10年以上かかるそうですが、何故か?土方歳三は正式入門から1年後には試衛館の師範代までつとめていたという説もあり、
管理人にはよくわかりません・・。
歳三が目録を受けたのも 1年かかっているのかどうかわかりませんが、近藤勇の場合は15歳の時、わずか7ヶ月で目録を受けています。

<書道と俳句>
20代の歳三は、家業を手伝う傍ら、従兄の本田覚庵のもとで書道を学びました。
土方歳三は「豊玉発句集」という俳句集を残していますが、これを書いたのもおそらく書道を学んでいた時期と思われます。
管理人の独り言

 

文久3年(1863年)の新選組結成 からについては「新選組の流れ」に書いてありますので、そちらをご覧下さい。

 

エピソード ★土方歳三の変化★

新選組時代の土方歳三で、最も有名な話が池田屋事件前の話で、捕らえた尊皇攘夷志士の古高俊太郎を前川邸の屯所で逆さ吊りにして、古高の足の甲から裏へ五寸釘をぶっ刺し、そこへ百目ろうそくを立てて、ろうそくに火をつけ、ロウがしたたることによってさらに苦痛を与えるという残忍な拷問をしたことです。
痛みに耐えられず古高は自白しました。

また、当時の土佐から脱藩していた浪士田中光顕(みつあき)は、
「新選組は怖かった、とりわけ土方歳三が怖かった。土方が隊士を連れ、都大路を向こうからやってくると、みな我々の仲間は、路地から路地へ逃げたものだ」と語っていたそうです。
このような話があるからか、土方歳三は「鬼の副長」と呼ばれています(当時そう言われていたかは不明)。


土方さんに関する証言は、美男子だったとか、壮大だったとか、近藤と比べ覇気はなかったとか、むっつりしていてあまり物を言わなかったとか、役者のような男だったとか、いろいろあります。

近藤勇と別れた後の土方歳三は北へどんどん転戦していくわけですが、生き残り隊士であった中島登の描いた絵には
「生質英才ニシテ飽迄剛直ナリシガ
年ノ長スルニ従ヒ温和ニシテ人ノ帰スルコト赤子ノ母ヲ慕フガ如シ
という文章が添えられています。
つまり剛直だったのが、年を経るごとに温和になり、兵士たちはまるで赤子が母を慕うように土方隊長を慕っていったそうです。


宇都宮(現・栃木県)城攻防戦の時には、逃げようとした兵士を斬殺した後、具体的な内容は不明ですが、可哀想な事をした、とひどく悔んでいたそうです。

そして箱館五稜郭まで土方の直率部隊として、市川鉄之助、田村銀之助らと共に従軍した沢忠輔の話によると、
「この頃の土方氏は常に下々の兵を憐れみ、軍に出るときはいつも先頭に立って進まれました」という事だったそうです。

松前藩城(現・北海道)を陥落させた時には、逃げ遅れた奥女中を兵士が暴行しようとしているのを、通りかかった土方歳三が一喝し、護衛の兵士をつけて青森方面に女性たちを退去させた・・という話もあります。

さらに蝦夷(北海道)では、長時間の戦闘後に新政府軍が撤退し、やっと一息つけた頃、土方自ら樽酒を兵士に振る舞い
「諸君らは一兵卒に過ぎないのに、よく敵を防いでいる。もっと褒美を与えたいところだが、酔っ払って軍律を犯しては元も子もないので、今日のところはいっぱいの酒だけだ〜」と労ったという話も残っています。

 

<榎本軍と土方歳三の最期について>
旧幕府軍の残党で蝦夷共和国を作ろうとした榎本武揚軍でしたが、軍艦を頼みとしていたものの、8隻の軍艦が次々と座礁(海中の岩の上に乗っかって動けなくなる)、暴風により中には沈没する船まで出る始末。
結局新政府軍に追い詰められ、土方歳三は戦闘中に箱館一本木で銃に撃たれ、馬上から転落して死亡。

遺体はこんにちどこにあるのか不明でして、いろいろな説があげられています。
暗殺説も一時期浮上しましたが、遺体は五稜郭内に運ばれ、伊庭八郎らと共に埋められたという話もどこかで読みました。
詳細を忘れてしまったのですが(汗)、その後お寺かどこか別な場所へ移葬されたとかなんとか(後にその移葬場が焼失したとか)。
戦争終了後は、死体が放置されてかなり酷い様子だったそうです。
だれが死んだのか確認するために放置されていたとかいう話もあったような。

ちなみに有名な土方歳三の写真ですが、あれは土方が戦死する6日前の明治2年5月5日(1869年)に土方の従者だった当時16歳の市村鉄之助が、毛髪、絶筆の和歌などと共に土方に託されて後に土方の故郷・日野の佐藤彦五郎宅へ届けたものです。
市村がひとり旅立つ時、土方歳三は窓からずっと、静かに市村を見守っていたとか。
市村は新政府軍の目を抜けて、乞食に変装して7月にやっと佐藤宅へ。
かなり大変だったようです。
市村鉄之助は3年ほど佐藤家でかくまわれた後、美嚢の故郷まで送られたとか。
しかし市村はその後西南戦争で西郷軍として戦って戦死したと言われています。



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<土方歳三の容姿>
土方歳三の身長はいくつかの説がありますが、
「五尺の上に五寸(約167センチ)は確かにあった」
「勇と比べると、髷つぶしだけは高かった」
という話が残っています。
幕末当時の日本人の身長は、全体的にとても低く、
成人男性でも150センチ台は普通でした。
土方歳三が167センチあったとしたら、当時としては
かなり高いほう です。しかしどの証言も印象で
語っているので、 実際にはわかりません。

写真・土方歳三 
その他の写真はコチラ
画像提供「幕末維新館

 

 

 

管理人の独り言
とかく「鬼の副長」と固くて冷たいイメージが強調される土方さんですが、実物を見た人の証言や、本人が残した物を見ていくと、 そのイメージがかなり偏ったものであることがわかります。
イメージの土方歳三は、氷が凍て付く真冬を好むような向きがありますが(笑)、実際の土方歳三は、花が咲き誇る春が好きだったようです。  >戻る


土方家は、
村で「お大尽=おだいじん」とあだ名で呼ばれる豪農でした。
実際、数年前に管理人が土方の生家を訪れた時、周囲に「土方」という名の家があちこちにあり、圧倒されてしまった記憶があります。土方歳三にあやかって明治維新後に土方姓をつけた人も多数いたとか。

また、土方家は、家を継ぐ者には代々「隼人=はやと」の名をつけるらしく、よくこの名前が出てきます。
ただ、後年の土方歳三が使った内藤隼人という名は、将軍慶喜から与えられたという話があるので、どういういきさつで隼人という名前になったのかはわからないです。。 >戻る

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