(天保5年3月11日〜安政6年10月7日/1834年4月19日〜1859年11月1日)
享年・数え26歳(満年齢25歳)
近藤勇や坂本龍馬といった、後世に有名な志士達が出てくる5年くらい前に早くも亡くなってしまっているのですが、実はこの左内さん、なんと近藤勇と同世代の人なのです!
橋本左内は、福井藩士の外科医、長綱(ながつな)の子として生まれました。
で、これまた近藤さんと同様に『三国志』を幼年時代より好んでいたそうです。
橋本左内のエピソードで有名なのは、「啓発録」というのを書き、15歳ですでに自己を確立して志を立てて、即実行したことです。
例えば「志を立てる(・・英傑でも一人の人間に変わりはない。志によって
大きな可能性が生まれる)」とか、「勉学(・・ものごとの理をあきらかにせよ)」
とか書いちゃってるのですよ、15歳で。しかも数えですから、満だと14歳。
なんというか、左内の場合は、やることをさっさとやって、早世してしまったという感じです。
しかも、会う人にはきちんと会っている、という感じでして、1849年、左内が16歳の時に大坂の緒方洪庵に弟子入り。
ちなみに緒方洪庵は適塾という蘭学塾を開き、福沢諭吉や、長州藩の大村益次郎、また戊辰戦争の函館で土方歳三と行動を共にする大鳥圭介などが入塾してました。
余談になりますが司馬遼太郎さんの「花神」などを読む限り、緒方洪庵は医者のかがみのような人物です。 すごくやさしい人。
大坂遊学中での橋本左内は、梅田雲浜(=うんびん)、横井小楠など、これまた後世に有名な志士達と交わってます。
その後も1854年(安政元年)には江戸を遊学、蘭学や漢学を学び、江戸では水戸学(尊皇攘夷運動の火種)の代表者とも言える藤田東湖や、西郷隆盛などと親交を結んでいます。
西郷隆盛は、橋本左内をとても信頼していたようで、亡くなるまでふところに左内の手紙を入れていたという話があります。
また、西郷が入水自殺した(が助けられる)のも、左内が死罪にされた安政の大獄の弾圧に失望したからだという理由もあったそうです。
あの、西郷隆盛がそこまで信頼を寄せた橋本左内。
しかも、左内は西郷よりも7歳も年下なのです。
どんな人物だったのでしょう。
橋本左内は、後に横井小楠の推薦?だったか、藩主・松平春獄の補佐官となり、将軍継嗣問題で発言するようになります。
しかし支持していた水戸派が破れ、弾圧され安政の大獄で捕らえられ処刑(斬首)されてしまいます。享年26歳。
同じく安政の大獄では、吉田松陰も処刑されました。
共通点の多い二人ですが、2人が会うチャンスはとうとうなかったようです。松陰は確か橋本左内と「会ってみたい」と周囲に
語っていたといいます。松陰は左内と親交のあった梅田雲浜と知り合いでした。
ちなみに雲浜も安政の大獄で獄死しました。
余談ですが、安政の大獄で処刑された志士達は、みな斬首だったようですが、松陰さんの場合、ドラマで見た時は両手を紐で後ろにくくられて首を切られる、という状態でした。
近藤勇も切腹ではなくて斬首だったようですが、近藤さんの場合はよく「百姓出身だから切腹させてもらえなかった」という
ふうに言う人がいました。ですが、私が思うに、近藤さんが斬首になったのは、出自はほとんど関係なく、幕府側の賊軍となった上に龍馬暗殺の犯人と思われていたからだと思うのですが、どうでしょう・・?
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