幕末人物紹介

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原田左之介(はらださのすけ)  

(天保11年〜慶応4年5月17日/1840〜1868年7月6日 ※没年異説あり)
享年・数え29歳(※68歳以上生きた説あり)

原田左之介は伊予国松山藩(現・愛媛県)の足軽の子として生まれました。

1858年(安政5年)藩を脱藩し大坂で谷三十郎から種田流の槍術を学びます。
そしてその後どういうわけか試衛館の食客に。

松山藩にいた時のエピソードが残っています。
左之介が若党(=わかとう:年の若い、武士の従者) を松山藩でしていた頃、ある武士と口論になり、 「切腹の作法も知らぬ下郎」と罵倒され、 怒り興奮した左之介は、やってみせようといわんばかりに 刀を腹に刺しましたが、手当てを受けて危うく一命を取りとめたといいます。

新選組時代に、「俺の腹は金物の味を知っているんだ」と 腹の傷跡を自慢していたという話が残っています。
斬りあいそのものが好きだったという話も。(近藤局長に怒られている)

新選組での原田は副長助勤から小荷駄方、そして十番隊隊長になっています。
隊士としては珍しく正妻まさを娶り、2男の子もいたが、次男が生まれたのは原田が京を去ってからで早死してしまったため、原田は会っていません。ちなみに「立派な武士に」と左之介が願った長男・茂は、まさの従兄のもとへ養子に行き繁次郎と改名して武士が消えた明治を生きました。40歳で病没。

池田屋事件、鳥羽・伏見の戦い、そして甲陽鎮撫隊と新選組隊士として行動してきた原田ですが、甲陽鎮撫隊の後は永倉新八と共に新選組を去り、靖兵隊(せいへいたい)を結成。
そこから会津へと向かう途中、永倉いわく「妻子への愛着から口実をもうけて江戸へ」。

ところが官軍がいて戻れなかったのか、彰義隊に参加。江戸・上野で戦うも銃に撃たれ、その傷がもとで死亡。
・・・なんですけど、実は生き延びて中国大陸を渡り馬賊になっていたという話があります。

明治40年(1907年)ひょっこり故郷の松山に帰ってきて、弟や甥たちに会い、維新後の行動を語ったそうです。
原田は満州大陸で馬賊の頭目となり、日清・日露戦争で後方から日本軍を支援したといいます。
その後原田は再び満州へと去ったとか。白髪童顔の老人だったそうです。

原田左之介の容姿に関しては「苦みばしったいい男」という証言が。背丈も高かったという話が残っています。
写真はなし。(2005年1月現在の時点では発見されておりません。)
性格は短気で「斬れ!斬れ!」とすぐ言ったとか。

原田左之介に関する情報資料というのは少ないようなのですが、不思議な伝説のある隊士です(笑)

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